明智光秀 ゆかりの地 恵那

ホーム

東美濃戦国史

明智光秀公が生きた時代の東美濃。
この地で起きた戦国のスーパースター織田信長と武田勝頼の合戦や、白鷹城(明知城)を中心とした山城の見どころを紹介します。

天正てんしょう2年の戦い―遠山領争奪戦―

恵那市明智町は、信州しんしゅう飯田いいだと名古屋を結ぶ中馬街道ちゅうまかいどう中山道なかせんどう大井宿おおいじゅく東海道とうかいどう岡崎宿おかざきじゅくを結ぶ南北街道なんぼくかいどうが交わる交通の要衝ようしょうでした。
戦国時代もこの点は変わらず、二つの道が交わる交差点を取り囲むように、白鷹城(明知城)仲深山砦落合砦(土岐明智城・多羅砦)の3城が構えられていました。中でも、明知城は鎌倉時代から続く遠山明知氏の居城であり、遠山荘南部の要の地として織田軍と武田軍の攻防の舞台となりました。
戦国時代のこの地で起きた合戦に想いを馳せながら山城を散策してみてはいかがでしょうか?

白鷹しらたかじょう明知あけちじょう

明知城は鎌倉時代から遠山一族の惣領家として続く名門遠山明知氏の居城であり、遠山荘南部の要の地として幾多の攻防の舞台となった。規模・構造ともに美濃国を代表する山城といえるだろう。

落合おちあいとりで土岐とき明智あけちじょう多羅たらとりで

落合砦(土岐明智城、多羅砦とも呼ばれる)の本丸や出丸は見晴らしがよく、三河(北条、今川、松平、三宅)、中馬街道(織田、森)、信州(武田、真田)等の動きをいち早くとらえることができる絶好の場所。

天正2年正月 明知城の戦い

元亀げんき3年(1572)秋、織田信長は、武田信玄に従属する遠山家の家督相続かとくそうぞくに介入し、一族を織田方に寝返らせることに成功した。信玄は、西上作戦せいじょうさくせん直前に美濃国みののくに橋頭堡きょうとうほ「遠山領」を喪失したのである。
12月、明知城主遠山景行は、信長の命令により、東美濃の諸将を率いて岩村城を攻撃したが、上村の合戦で大敗し戦死してしまった。家督は若年の孫一行が継ぎ、援軍として坂井さかい越中守えっちゅうのかみが一族を率いて入城した。

天正てんしょう元年がんねん(1573)の武田信玄の死により家督を継いだ勝頼は、しばらく喪に服していたが、年が変わると織田・徳川との戦いを再開した。
1年半後の長篠の戦い、そして天正10年の武田家滅亡まで続く長い戦いの始まりであった。

天正2年正月、勝頼が緒戦に選んだのは、元亀3年に失陥した遠山領の回復である。

勝頼は27日に岩村城に進出し、明知城串原城(大平城)を囲んだ。このとき一夜城に陣を構えたと伝えられている。
迎え撃つ明知城には遠山一行や坂井一族(このとき越中守は不在)のほか飯羽間友信など近隣の諸将も入城して籠城ろうじょう体制を整え、信長の後詰ごづめを待った。報を受けた信長は、2月1日に濃尾の軍勢に出陣を命じ、自身は嫡子信忠とともに6日に神篦城に入った。そして、明知や一夜城を望む鶴岡山陣所を築き、勝頼との決戦に臨もうとした。

ところがまもなく明知城では飯羽間友信が城内で謀反を起こした。坂井一族はことごとく討ち果たされ、10日以前に落城してしまう。串原城もほぼ同時に落城した。
信長は遠山領の防衛をあきらめ、境目の神篦城に河尻秀隆、小里城に池田恒興を置き、両城の普請を命じて24日に岐阜に帰陣した。

勝頼軍は明知城など十八砦を攻略し、後詰の信長軍も追い返した。
勝頼にとって明知城の戦いは、父信玄が失陥した領土の奪還に成功し、後継者にふさわしい武威を世に示すことができた重要な合戦であった。

一夜いちやじょう

明智を一望する山の上に築かれた砦。天正2年の戦いで武田勝頼が陣を構えたと伝えられる。

恵那市明智町杉野/遠山景行の墓所がある安住寺の裏山

岩村いわむらじょう

遠山氏の本城で東海地方を代表する山城。天正2年には武田二十四将の一人秋山虎繁が入り、対織田最前線の拠点となっていた。

恵那市岩村町/岩村歴史資料館前の道が登城口

前田ぜんだとりで

岩村城と武田領国を結ぶ中馬街道上村宿を押さえる要衝。東美濃最大級の巨大な堀切を有する。

恵那市上矢作町本郷/JA上村支店横・大船神社参道入口が登城口

城山じょうやまとりで漆原うるしはらじょう

前田砦と連繋して中馬街道大馬渡峠を見張る。馬出など技巧的な縄張りが特筆され、武田方による築城もしくは改修の可能性が高い。

恵那市上矢作町漆原/国道257号城山トンネルの上

仲深山なかのみやまとりで

白鷹城(明知城)の南、万ヶ洞を挟んだ尾根に立地する。規模、構造は明知城に類似する。明知城の別郭か、それとも攻撃のための陣城か。

鶴岡山つるおかやま陣所じんしょ諏訪すわとりで

鶴岡連山の明智を一望する尾根上に築かれた砦。天正2年の戦いで織田方が陣を構えたと伝えられる。

恵那市明智町大泉/大泉集落から登山道あり

神篦こうのじょうつるじょう

延友氏の居城。織田方による岩村城攻略の拠点で、天正2年の戦いで信長が本陣とし、続いて河尻秀隆が定番となり常駐した。

瑞浪市土岐町鶴城/国道19号鶴城交差点西南の山

小里おりじょう

小里氏の居城。天正2年の戦いの後、池田恒興が番手として入った。

瑞浪市小里/県道川折交差点南の山

下手向しもとうげじょう

土岐坂(小里・神篦に向かう山越えの道)の登り口を見下ろす尾根に立地。主郭を囲む横堀とこれに連動した竪堀が見所。

恵那市山岡町下手向/鶴岡簡易郵便局の裏山

釜屋かまやじょう

明智・山岡境の鶴岡連山の北向きの尾根に立地する大規模な山城。小里川流域と屏風山連山を一望にする。

恵那市山岡町釜屋/釜屋公孫樹会館東900m

大平おおだいらじょう

遠山一族の中で三遠山に次いで有力な串原氏の居城。天正2年の戦いで明知城とともに武田方の攻撃目標となり落城した。

恵那市串原/市自主運行バス大平バス停前の山

飯羽間いいばまじょう

室町幕府奉公衆の系譜を引く遠山飯羽間氏の居城。

恵那市岩村町飯羽間/飯羽間から山岡町久保原へ向かう県道沿い

のぶしろ

飯羽間城の北東にある。天正3年の織田信忠による岩村城攻めのときの陣城か。

恵那市岩村町飯羽間/飯羽間城の北東600m

阿木あぎじょう

岩村と中山道を結ぶ街道を押さえる。円形の大きな主郭が特徴で、岩村城攻防戦の陣城と推定される。

中津川市阿木/明知鉄道阿木駅正面の山

阿寺あでらじょう

中津川と岩村を結ぶ根の上越えの街道を押さえる。天正2年の戦いでは武田方の木曽義昌の攻撃を受け、飯羽間の遠山友重が討死している。

中津川市手賀野/手賀野配水池東側の尾根の上

苗木なえぎじょう

木曽川北岸の高森山に築かれた遠山氏の北の拠点。武田勝頼の嫡男信勝の母は城主苗木勘太郎の娘である。近世には苗木藩一万石の居城で、赤壁伝説でも知られる。

中津川市苗木/国道257号城山大橋付近