明智光秀 ゆかりの地 恵那

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明智光秀公ゆかりの地

岐阜県恵那市明智町は、戦乱の世を駆け抜けた戦国武将「明智光秀公」の生誕地とされ、光秀公に関する伝承や史跡、母である於牧の方の墓所など数多く残り、町民によって今も語り継がれています。
毎年5月3日には光秀まつりが開催され、名将光秀公を偲び、勇壮な武将行列が繰り出されます。
光秀公が生まれ育った恵那市明智町を巡ってみましょう。


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明智光秀公産湯うぶゆ井戸いど(落合砦・土岐明智城・多羅砦)

明智光秀公は、大永6年(1526年)3月10日、落合砦(土岐明智城・多羅砦)で誕生したといわれています。砦には、光秀公の産湯として使われたとされる井戸が現在も残っています。

井戸からは、弥生時代の石器や、焼け焦げた柱材、恵比寿の宝寿等が出土したと言われています。

恵那市明智町947-10 千畳敷公園内(明知鉄道:明智駅から徒歩16分)
洋式・多目的トイレあり 駐車場90台
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於牧おまきかた墓所ぼしょ

明智光秀公のご母堂ぼどう、於牧の方の墓所。
悲運の最期をとげた於牧の方を偲び、里人が建立したとされています。

将軍徳川吉宗によって制定された「公事方くじかた御定書おさだめがき」の翌年、1743年に建立された石塔には、当時の世評をはばかって「南無阿弥陀如来」とだけ刻まれています。また、於牧の方にちなんで樹齢400年を超える老樹「高野こうやまき」を、神木として今もなお崇拝しています。

於牧の方は、若狭武田氏の出身とされており、「鈴木叢書」十三所収「明智系図」によると、光秀の父・光隆の名前の下に「妻武田義統妹」とあります。

恵那市明智町1175-1(明知鉄道:明智駅から徒歩22分)
駐車場無し(最寄り駐車場 大正村駐車場)
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明智光秀公学問所と天神神社

万ヶ洞にある天神神社は、明智光秀公が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われています。

祭神は菅原道真公であり、京都北野の天満宮からの分祀と伝えられています。

恵那市明智町1318-2(明知鉄道:明智駅から徒歩22分)
駐車場無し(最寄り駐車場 大正村駐車場)
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龍護りゅうご

臨済りんざいしゅう妙心みょうしん派の寺院。
山号を【大明山】寺号を【龍護寺】と称します。

慶長元年(1596年)に明知城主であった遠山利景公が、白鷹城(明知城)の北に浄地じょうちを選び、瑑室和尚を開基として禅刹ぜんさつ建立こんりゅうしたことに始まります。

恵那市明智町1389-1(明知鉄道:明智駅から徒歩10分)
駐車場無し(最寄り駐車場 大正村駐車場)
※立ち入り禁止エリアへの立ち入りはご遠慮ください
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明智光秀公供養塔(龍護寺)

遠山家の菩提寺である龍護寺に、明智光秀公の供養塔があります。
光秀公に関する碑は、「その悲痛な思いで」ことごとく割れるといった通説どおり、斜めに大きくひび割れが入っています。

毎年5月3日に開催される光秀まつりでは、明智光秀公追善供養が執り行われます。

如意輪観音菩薩像(龍護寺)

龍護寺にある明知遠山氏代々の墓地には、二座の如意輪観音菩薩像が建てられています。

左側の像は、遠山伊次公の後室「凉光院」の像で丸に二つ引両の紋がつけられ、右側は2代にわたり大奥の老女となった遠山景逵公の娘「岩岡局」の像で、丸に桔梗紋がつけられています。

明知遠山氏と土岐明智氏の深い関わりを示す桔梗紋が用いられています。

金幣社きんぺいしゃ 八王子はちおうじ神社じんじゃ

平安時代に創建され千年を超える歴史を持つ郷土の産土神です。現在の社殿は、延宝四年(1678年)、領主遠山伊次公による造営で、県の重要文化財に指定されています。

唐門は白鷹城(明知城)の城門を移築したものとされています。

恵那市明智町1400-1(明知鉄道:明智駅から徒歩6分)
駐車場無し(最寄り駐車場 大正村駐車場)
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柿本人麻呂社と明智光秀公手植えのかえで(八王子神社)

柿本人麻呂社は、金幣社八王子神社境内にある、万葉の歌人柿本人麻呂を祭神とする社殿。
伝承によれば、文武を志す光秀公が学問所には天神を、八王子神社には人麻呂を祀り、社前に紅葉(楓)を植えたと伝えられています。

この社殿には明智氏の家紋である桔梗紋が彫られ、大和絵風の歌聖柿本人麻呂の画像が祀られています。

伝承

明智光秀公の他、土岐明智氏に関する伝承などが、明智町において今なお語り継がれています。

土岐明智氏と常盤姫伝説

約700年前土岐頼兼の後室に明智の豪族の娘、「常盤姫」が嫁いでいましたが、臣下の嘲笑を受けたので、土岐川淵に身を投げられました。

姫は守仏として観音像を抱いており、観音像は臣下によって姫の出生地、明智地内の的場に祀られ、光山寺として供養されてきたという伝説が残っています。 その後この地で明智光秀公が誕生したと伝えられています。
観音像は、現在も地域住民によって守られています。

「明」と「明」はいかにしてできたか

足利幕府からの安堵状には、遠山庄明村や明遠山景保といった「明」の字が見られますが、江戸時代になると「明」とされていて、明遠山氏と名乗っていました。

これは本能寺の変を境に追求を恐れ、明としたのではないかと伝えられています。
昭和の合併時に、今のに戻されています。